スーパームーンの夜に♪
門倉まさる歌集 「黄金の月」より
edit by Atsuko Matano music©soundtexturesPosted by 俣野 温子 on 2015年9月24日
曼珠沙華
この怒りを忘れないように書き留めます
今、気持ちを立て直すとき
ケサラ
パリから届いた写真
鬼怒川の氾濫に思う
私が一番聞きたかった言葉 伊藤真氏 意見陳述掲載
今回の安保法案が今の日本の安全保障にとって適切か必要か、そうした議論はとても重要だと思います。しかしそれ以上に、そもそも憲法上許されているのか否か、この議論が未だ充分になされているとは思えません。
どんな安全保障政策であろうが外交政策であろうが、憲法の枠の中で実行すること。
これが立憲主義の本質的要請であります。
憲法があってこその国家であり、権力の行使である。憲法を語るものに対して往往に、軍事の現場を知らない、憲法論は観念的で…というふうによく批判されます。しかし不完全な人間がいわば実行する現場、そして現実、これを人間の英知であるところの、いわば観念の所産であるところの憲法によってコントロールする、まさにそれが人類の英知であり立憲主義であります。
憲法論がある意味で観念的であり抽象的であるのは当然のことであります。現場の感情や勢いに任せて、人間が過ちを犯してしまう、それをいかに冷静に知性と理性で縛りをかけるか、事前にコントロールするか、それがまさに憲法論の本質と考えています。憲法を無視して今回のような立法を進めることは立憲民主主義国家として到底ありえないことです。
国民の理解が得られないまま、採決を強行して法律を成立させることなどあってはならないと考えます。本案は国民主権、民主主義、憲法9条、憲法全文の平和主義、ひいては立憲主義に反するものでありますから、直ちに廃案にすべきと考えます。
国防や安全保障は国民にとって極めて重要な政策課題であります。ですからその決定事項に従うためにはそれを決定する国会に民主的正統性これは統治の統でありますが、正統性がなければなりません。
憲法はその冒頭で、日本国民は正統に選挙された国会における代表者を通じて行動しと規定しております。なぜ正統な選挙が必要なのか、それはそこでの多数決の結果に賛成できない国民であっても、この権力の行使を受けざるを得ません。それに納得できる手続きが保証されなければならないからです。仮に結論に反対であったとしても主権者国民の多数から選出された代表者が十分に審議討論して、その問題点を明確にした上で成立した法律なので、仮に結論に対して反対の立場であったとしても、とりあえずは従うということであります。
国会における法律制定という国家権力の行使を正統化するためには、どうしてもふたつのことが必要であります。ひとつは正統に選挙された代表者であること。もうひとつ、十分な審議によって問題点を明確にしたこと。残念ながら共に満たされていないと考えます。
現在の国会は衆議院については2011年、2013年、参議院については2012年、2014年と、それぞれ2度も毎年最高裁判所によって違憲状態と指摘された選挙によって選ばれた議員によって構成されております、いわば国民の少数の代表でしかありません。これは異常であり、違憲状態国会と言えるようなものです。この瞬間全ての皆様を敵に回してしまっているな(笑)という気がするんですが…。
そこで安保法制というもの、国民の生活の根幹に関わるような法律を制定しようというわけですから、憲法判断において最高裁を尊重するというのであれば、まずは最高裁が指摘するように議員定数これを憲法の投票価値の平等の要請に合わせて正す、民主主義が機能するにしてから、こうした議論をするのが筋ではないかと考えます。このように代表民主制としての正統性を欠く国会である場合、主権者国民の声を直接聞くことが不可欠と考えます。
連日の国会前の抗議行動、全国の反対集会、デモなどをはじめ、各種の世論調査の結果で、国民がこの法制に反対であることが周知の事実となっております。国民の声は決して雑音ではありません。自分たちの生活が根底から覆されるのではないかと危機感を抱いている生活者であり、また主権者である憲法制定権者の声であります。国会議員にとっては自分たちを選出し、権力行使を権限を授権してくれた主人の声。実際に声を上げている人々の背後に、思いを共有する人々がどれほどいるであろうか、民意を尊重する政治家ならば、想像力を発揮すべきだと考えます。
違憲状態という異常の国会であるからこそ、国民の直接の声に謙虚に耳を傾けなければならない、そうでなければ民主国家とは到底言えないでしょう。もちろん参議院で審議を継続しているにも関わらず、60日ルールを使われてしまうようなことは任意性の議会制民主主義の否定であってはならないことだと考えます。民主主義のもとでは多数決によって物事が決定します。しかし少数意見、反対意見を十分に聞き、審議を尽くしたといえる審議討論の過程こそが多数決の結果の正統性を持たんとするものであります。十分に審議を尽くすことで問題点を明確にし、それを国民に示すことで次の選挙の際の国民の判断材料を提供するわけであります。十分な議論も尽くさずに、次の選挙で審判を受ければ良いなどというような考えは民主主義を全く理解していないものと考えます。
国民は国会で十分に議論がなされてからこそ、そこでの結論が自分の考えと違うとしても、一旦は納得し従います…この国民の納得感こそが民主主義を支える重要な要素であります。国民の納得と指示に支えられて、自衛隊は活動します。国民の納得と指示が不十分なままで他国民の殺傷行為を国の名で行う、もしくは自衛官個人の判断で行うということになると、それは国民にとってもまた、現場の自衛官にとっても悲劇としか言いようがありません…では不安を感じている国民も理解できるような十分な審議が尽くされたと言えるでしょうか。
各種世論調査によっても国民の理解は進んではいないと指摘されております。何事にもメリット、デメリットがあるはずなんですが、政府の側からのこの法案についてのメリットの説明しかないように思われます。デメリットをどのように克服するかという議論が全くなされていないと感じるからこそ国民は不安になり反対するのではないでしょうか。
例えば政府は戦争に巻き込まれることはないという。また戦争法という呼び方を批判されます。しかし例えば集団的自衛権を考えた場合、たとえ要件の解釈で厳格に限定したとしても、その効果が日本が武力攻撃されていない段階で、日本から先に相手国に武力攻撃をすることを認めるものです。敵国兵士の殺傷を伴い、日本が攻撃の標的となるでありましょう。これは日常用語ではこれを「戦争」といいます。こうして戦争に巻き込まれるというデメリットを超えるメリットがあるということを、なんら説明されていません。徴兵制は憲法18条に反するから全くありえないといいます。憲法18条で意に反する苦役に服させられないとありますが、しかしこれは公共の福祉で制限できると解釈されているものです。
ということは、必要性合理性が生じたならば徴兵制も可能ということを意味します。サイバー対策のためのIT技術者、輸送医療、法務など必要な人材の確保に窮した時でも、限定的な徴兵制すらありえないと言い切れるんでしょうか。
集団的自衛権の解釈でやってみせたように、これまでの政府解釈を状況が変化したということである日突然変更してしまうという可能性を否定できません。
抑止力を高めることが、国民の命と幸せな暮らしを守るといいます。しかし軍事的抑止力を高めることでより緊張が高まり危険になる可能性もあるはずなのですが、その説明はありません。
他にも立法事実が本当にあるのか、自衛隊員と国民のリスクはどうなるのか、後方支援がなぜ他国の武力行使と一体化しないのか、海外で自己保存以外の武力行使が許される根拠はどこにある、他国軍の武器防具が許される法的な根拠は…自衛官が海外で民間人を誤射してしまった際の処理など他にも不明な点が山積みであります。多くの国民の疑問を残したまま強引に採決を強行してはなりません。
憲法は国民が自らの意思で国家に一定の権限を与えて国家権力を制御するための道具であります。憲法はその前文で日本国民はこの憲法を確定したといっています。なんのためかわが国全土に渡って自由のもたらす計画を確保するため、そして政府の声によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意しとあります。つまり、二度と政府に戦争をさせない、そのためにこの憲法を作ったわけであります。そしてそのことを具体的に明確にするために、憲法9条をおきました。憲法ははじめから政府に戦争をする権限などを与えていません。
そこでの戦争は武力の行使、武力での威嚇を含む概念であります。すなわち憲法は政府の裁量で武力行使、つまり戦争を始めることを許してはいないんです。そこで憲法の外にある国家固有の自衛権という概念によって、自国が武力攻撃を受けたときに限り個別的自衛権だけを認めることにしてきました。この個別的自衛権は日本への武力攻撃が行われたときに行使されますから、これは客観的に判断できる基準であります。しかし集団的自衛権は他国への武力攻撃を契機とし、政府の判断で行使されるものであり、限定的な要件を建てたとしてもその判断を政府の総合的な判断に委ねてしまう以上、政府に戦争開始の判断を与えることに他なりません。
これは日本が武力攻撃を受けていないにもかかわらず、政府の行為によって、日本から戦争を仕掛けていることになります。日本が攻撃されていないのですから攻撃する場所は日本の領土外、つまり外国であります。この結果外国で敵国兵士が殺傷され施設が破壊され、これを自衛という名目の海外での武力行使そのものであり、交戦権の行使に他なりません。憲法9条1 項に違反し、交戦権を否定する2項に違反します。たとえ自由の名目であっても、その武力行使によって深刻な被害を受け、また加害者となるのは国民自身なのであります。
ですから国民自らの意思で、こうした海外での他国民の殺傷や施設の破壊をする権限を政府に与えるかどうか、これを自ら決定しなくてはなりません。それが憲法制定権が国民にあるということであり、主権が国民に存するという意味であります。国民からすれば自らを危険にさらす覚悟があるのか、自ら殺人の加害者の側になる覚悟があるのか、これを自ら決定する究極の自己決定権の行使であります。
それが憲法制定権を持つ国民が憲法改正を手続きをとり、集団的自衛権を行使できる国になった選択をすることに他なりません。本法案は、その国民の選択の機会をまさに国民から奪うものであり、国民主権に違反し許されないことと考えます。これだけ重要なことを憲法改正改正手続きも取らずに、憲法で縛られて戦争する権限など与えられていない政府の側で一方的に憲法の解釈を変更することで可能にしてしまうことなどできようもなく、明確に立憲主義に反すると言わざるを得ません。
政府が憲法上許されるとする根拠が昭和47年の政府意見書と砂川判決であります。ともに根拠となるという論証はなされていません。47年の意見書の当時から、限定された集団的自衛権が認められていたというようなことは、元内閣法制局長官だった宮崎礼壹参考人がいうように白を黒と言いくるめるようなもので、あり得ません。当時の吉國長官答弁および、防衛庁政府見解によって完全に否定されているものであります。
さらに時代が変わったのだから、自衛の措置として全体的集団的自衛権はまだ認められるようになったのだと解釈することは、時代の変化による必要性が生じたからこれまで認めたくなかった武力行使を、必要性だけで認めてしまうことを意味します。法的安定性が根底から覆されるものであります。
しかも昨年7月1日閣議決定では、47年見解が中核部分であるところの、しかしながらだからといって、平和主義を基本原則とする憲法が自衛の措置を無制限に認めているとは解されないのであって、という重要な記述をあえて脱落させています。
必要があれば自衛の措置としてなんでも容認してしまうというこの解釈を許してしまうことは、武力の行使と交戦権を否定した憲法9条をなきものとし、政府に戦争の惨禍を起こさせないようにするために憲法で軍事力を統制した立憲主義に真っ向から反します。
この47意見書は合憲性の根拠にはなり得ないものであります。砂川事件最高裁判決が集団的自衛権行使容認の憲法上の根拠にはなりません。これまでも指摘されてきたように、砂川判決は集団的自衛権の可否を扱った判例ではありません。
憲法判例が一定の規範的な意味を持つためには、公開の法廷で当事者の弁論によって、争われた争点によって、について判断することは必要であります。持ち込まれた争点に対して法律専門家同士が議論を尽くし、裁判所が理性と知性によって、法原理を探った結果だからこそ、その判決の内容を国民は信頼し、一定の規範としての意味を持つに至るのです。
全く当事者が争点にもせず、専門家によって議論もされていない点について判例として意味をもたせてしまうと、部外者による恣意的な解釈を認めることになり裁判所の法原理機関としての正当性を失わせ、裁判所の権威をも失墜させてしまうでしょう。
このように当時争点になっていなかったのだから、集団的自衛権を認める規範として意味がないという指摘に対して、それでも合憲の根拠というのであるならば、「1」争点になっていなくても規範としての意味がある。または「2」当時争点となっていた。このいずれかを論証しなければなりません。しかしどちらの論証も政府側からなされていません。によって、法的にこの砂川事件最高裁判決を集団的自衛権の根拠に使うことは許されません。
最後に申し添えたいことがあります。
そもそも国会議員には憲法を尊重、擁護義務がございます。どんな安全保障政策であっても、憲法の枠の中で実現すること、これが国会議員の使命であり責任であります。
昨年7月1日の閣議決定が違憲であることがそもそもの問題の原因なのですから、あそこにしっかりと立ち戻って憲法上議論しなければなりません。良識の府である参議院の存在意義は衆議院に対する抑止であり数の力による暴走に歯止めをかけることにあります。
参議院の存在意義を今こそ示すことが必要と考えます。国民はここでの議論、そしてこの法案に賛成する議員のことをしっかりと記憶します。18歳で選挙権を与えられた若者を含めて、選挙権という国民の権利を最大限に行使するでありましょう。
昨年7月の閣議決定以来国民は、立憲主義、平和主義、民主主義、国民主権の意味をより深く理解し、主体的に行動するようになりました。これはこの国の立憲主義、民主主義そして国民主権の実現にとって大きな財産になるものと考えます。国民はこれからも理不尽に抗い続けるでしょう。
戦争は嫌だという心から本能の叫びから、また今を生きるものとして次の世代への責任があるから抗い続けることでしょう。
それがひとりひとりの国民の主権者としての責任だと自覚しているからでありますす。
そのことをここにいらっしゃるすべての議員の方が深く心に刻むことを期待して私の意見陳述を終わります。