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2008.07.27 Sunday

白いカンバス

真っ白なカンバスに向かって最初に筆を置く時が好き。

やり直しのきかない現場は数多くあります。だからといって慎重になりすぎても、つじつまが合わなくなるばかり。エイッ!と覚悟を決めてしまうしかないことが、毎日の暮らしの中にあるのです。

不用意に発した一言や、OKしてしまった約束事。…だからといって、先送りにしていつか、いつかと思っているような人生は選択していません。

人生は基本的に難問との闘いばかり。
…だから「白いカンバス」に筆を置く瞬間のように、慎重で大胆であれと、自分に言い聞かせる事が私にとって、とてもとても大切な事なのです。

今日の私は今まさに「白いカンバス」状態なの。
ものつくりをしていていつも思うことは、決して「無から有を生む」訳ではないということ。
情報が錯綜している時代だから、心の中はいつも「有」ばかりです。
私が何かを考え始めるときに一番気を使うのはそのことだけ。
「有」から「無」に向かっていくのです。


2008.07.25 Friday

憧れ

数日、ちょっとバタバタしていてブログをさぼりました。…さっき開いたら、海外にお住まいの方からコメントを頂戴していました。
…何だかとても心が温かくなりました。…ありがとう。

さて、今夜は「憧れ」…について少しだけ話したいと思っています。何故この言葉を思いついたのかわからないけど、ブログを開いた途端にこの言葉が、私の頭の中に降ってきました。

…私は子供の頃から、とても幸せなことに「憧れる」ことがとても多かったと思います。今のように日本が豊かではなかった分、余白のような場所が心の中に存在していて、そこにはいつか欲しいものや、行きたい場所、出会いたい人、住みたい家などがぎっしりと描かれていたのです。

少し前のブログで書いたけど、欲しかったものは…時間はかかっても必ずまた巡り会えることを信じられるので、今はそのページの余白には、新しいものを書き込むことはありませんが、むしろもっと違うものに「憧れ」ています。
私の「憧れ」は「情熱」かな?
ものすごく熱いものにひたすら「憧れ」ます。

仕事をしていて思うことは、いつも「温度」…のようなもの。どんな時代でも元気のある会社はこの「温度」が違います。
現場の人たちとの会話は尽きることがありません。冷静に分析することも必要だけれど、ただのお仕事になってしまっている人たちとの会話は、何も心に残りません。
創作意欲に火がつくこともなく、締め切りだけが刻々とやってくるみたいな現場は、ものをつくる仕事では本当に苦労するものです。

自分自身を駆り立てるための方法もいくつか知っています。私は順番にそれを試し、一番バランスの取れた状態になってから、おもむろに仕事にかかります。
…けれど、ひとりではどうしようもないときもあります。そんなときに時を忘れて付き合ってくれる人たちは貴重です。

実は夕べも、そんな仲間がアトリエを訪ねてくれました。…朝までハイテンションの話がはずみました。
今日は、おかげで、ものすごく仕事がはかどっています。
だから、今日のブログはここで終了。

私は今、「憧れ」ていた世界への扉の前に立っています。その扉に手をかけているのです。その扉を開けたら、何が待っているかは考えなくても良いことです。
ただ私の心の中に久しぶりにものすごく熱いものがわき上がっています。
それを信じたいと思います。

2008.07.18 Friday

恩は石に刻め、恨みは水に流せ

このピエロの絵は、長年私の会社の顧問弁護士を引き受けて下さっている先生のポートレートです。
新しい契約の時や、著作権侵害などの問題が起こるとき、彼はスーパーマンのように駆けつけてくれて、問題解決に心血を注いで下さっています。

彼が弁護士になって、初めて結んだ顧問契約の会社が私のところという、お互いの人生の中で歴史的な瞬間を共有している、縁の深い方でもあります。
私は彼と一緒に法廷に立ち、証言したこともあります。今思えば…それはまるで映画のワンシーンのようでした。

医者と弁護士は友人に持てという習いの通り、私たちは仕事の関係だけでなく、いつの間にか友人とも言える家族ぐるみの長いお付き合いをしてきました。
出会った頃、私はひどい著作権侵害に悩んでいました。私の絵がそのまま、何の修正もなく、社名まで入った状態でコピーされたりすることが驚くほど多かったのです。

…そして、相手はみんな業界の大手。別の弁護士さんに相談したけれど「君の絵は、本当に著作物といえるものかね」…というような、理不尽な対応が続いていたので、正義感の強いまっすぐに判断して下さる弁護士さんとの出会いに、私はやっと救われたという想いがしたことを今も思い出します。

…けれど裁判所という現場は、ものつくりとは真逆の発想で、何もかもが理詰め。丁度その頃難しい局面を持った裁判がはじまり…私たちは自分たちの主張を裏付ける膨大な資料を作りました。
私が描いた絵を、本当に私が描いたと証明することが、まさかこんなに難しいとは思いませんでした。

それ以前に雑誌や新聞の記事で、私の著作物が紹介されていたことが幸いになって、無事に私は私の絵を、自分で描いたものとして認められましたが、相手の主張は自分のイメージを伝えて私に描かせたから、この絵はすべて自分のものである…という主張でした。
それが全く根拠のない嘘だとしても、それを嘘だと証明する作業のなかで私は、「人は信頼に値する」という信念が何度も揺らぎました。それを支えて下さった時の流れは本当に貴重でした。
その会社は今はもう存在しません。

私は闘いました…そして裁判所の和解勧告を受理しました。その顛末をご存知の方は本当にわずかです。けれど私はその裁判で沢山のことを学びました。

丁度裁判が佳境に入っていた時、私は初詣に近所の神社にお参りをしました。そのときいきなり私の目に飛び込んで来た言葉がありました。

「恩は石に刻め、恨みは水に流せ」

たったこの一行の言葉が、私の胸を打ちました。
私は裁判の間中、何度も何度もこの言葉を頭の中で繰り返しました。けれど人はそう簡単に「悟る」ことなんてできません。頭ではわかっても、心は決して許したくないのです。その裁判の資料の中で、私は笑ってしまうほど根拠のない個人的な中傷も、散々受けたのです。

…長い時が流れました。今の私がここにこうしていることにただ、感謝だけを捧げたいと思います。私はまだ、ここでこうして「ものつくり」と向き合っています。
私が作るものを許して下さっているお客様が沢山いらっしゃるからです。
私は今夜もアトリエで絵を描いています。
小さな花柄のテキスタイルや、刺繍図案。まだ私の心の中には沢山の絵があります。
それは、決して誰かにいわれて描いているものではありません。
私の心の中からそうっと、静かに生まれるものばかりです。

そして、私の絵は、私を裏切ることは一度もありませんでした。

あれよあれよという間に、顧問弁護士の先生の事務所は大きくなり、先生もお忙しくなられるばかり。
最近ではなかなか個人的に一緒に遊ぶ時間がありません。近々ぜひご家族の皆さんを我が家にお誘いしたいと思います。多分私たちが出会ってから25年は過ぎていると思います。
「恩は石に刻め、恨みは水に流せ」…という言葉の通り生きられればいいけれど、私の人生のなかで応用できるのはまだ、「恩は石に刻め」という半分だけです。
先生から受け取った「恩」は、確かに石に刻んでおります。

2008.07.18 Friday

幸せのエール

昨日に引き続き、マイコレクションの紹介です。
この写真の鴨かアヒル?かわからないけど、1本の木から削りだされた小物入れは、とても堅い木でできています。持つとずしりと重さがかかります。写真では小さく見えるけれど実際は25センチ以上もあって、かなり重厚感があります。

…これも近所の古道具屋さんで見つけたもの。
確か値段は二千円で、少し値切りました(笑)
鴨は背中に子供を乗せています。何とも幸せな絵です。これを一体どういう風に削りだしたのかわからなくて…そういうことはわからなくても、この置物から感じた「幸せのエール」は私にも、これを見た方にも充分伝わると思うのです。

…そういうものを作りたいと思っています。…そう「幸せのエール」をいっぱい送りたいのです。
…それは、絵でも言葉でもハンカチでもパジャマでもタオルでも全部同じです。

私は長年、ひとりで過ごす時間を多く持ってきました。子供を寝かしつけて、すぐに仕事モード。夜泣きの時期はかなりきつかったけれど、その切り替えは、かなりうまかったと思います。
色々な時間を過ごしてなお、やはり一人の時間を大切にしています。

それは大切なことを思い出す時間です。自分の心とまっすぐに向き合う時間という言い方が正しいかも。
長い人生の中には心が揺れてどうしようもないときもあるし、心がつぶれるほど悲しいこともあります。
…そんな心と向き合う時間に、やっと私は私を取り戻せて来たと思うのです。

いつか息子が大人になったら、私の心の内側の話を聞かせたいと思っていました…それを今日話しました。その話をするのはとても勇気のいることだったけれど、息子は黙って聞いてくれました。
私にはたぶん、自分を信じることができなかった時代が長く横たわっています。一人の人間の力など取るに足りない小さなものと思っていた節もあります。
けれど、人間はもっともっと素晴らしいものだよと、私は息子に話しました。
選択次第で、どんなものにもなれるし、どんな生き方もできるのだと…。

そして私は選択しました。「幸せのエール」を送る人になりたいと。
「お母さんの話は飛躍するね」息子は私の話を聞きながら、大人のように笑いました。

それから私は息子に、私の夢を語りました。「壮大だね」…「うん!そうだよ。これからまたお母さんの人生は新たにはじまる!」…夜明けに親子でトコトン盛り上がり、もうすっかり太陽がさんさんと降り注いでいます。

私は夜更かしをしている息子に「早く寝なさい!」というかわりに、眠れないほど大盛り上がりの話をしてしまう母親です。
けれど息子は笑って「それがお母さんだよ」といってくれました。
少なくとも息子には今朝方「幸せのエール」を送れたと思います。

2008.07.17 Thursday

マイ・コレクション

●これはおもちゃの小さなアコーディオンです。これと同じものを私は小学生の二年生くらいのとき見ました。
叔父が昔、おもちゃ屋さんを商っていたとき、そのお店の一番上の棚に、ちょこんと乗せられていたものとたぶん同じものです。「とんぼ」というメーカーのものでれっきとした日本製で、ちゃんと音が出ます。
あのときも私はそれが欲しかったけど、そのときは言えませんでした。

だっこちゃんがブームで、私は母にねだって、駅前でだっこちゃんを買ってもらったばかりだったのです。
…ずっと後になって、母がぽつりと言いました。
「あの頃が一番苦しい時期だったなあ。ほら、お前がだっこちゃんが欲しいと言ったとき…めったにものをねだらない子だったから、あのときは何としても買ってあげたくて買ったけれどね」
その時の印象は子供心に強烈だったのかもしれません。私はだっこちゃんとこの小さなアコーディオンのことを、深く心に刻んだ思い出にしていました。

…そして、今から10年ほど前に、私は「小さなおもちゃのアコーディオン」という童話のようなものを書きました。
それは、そのときのことが下敷きになっているお話でした。それと同じものを雑然とした棚の上で見つけたとき、私は迷わず手に取りました。

20歳の頃、私は紀伊国屋書店で、竹久夢二の完全復刻版の全集を見ました。それはとても高価なもので、その頃の私には決して手の届かないもので、私はかなり長い時間、その本たちをながめて過ごしました。けれどそれから二十年以上過ぎたとき…私はその出版元と仕事をするようになったのです。
若い頃に、のどから手が出るほど欲しかった全集の話をすると、まだいくつか残っているはずといわれ、調べてもらいました。
今では私の本棚に並んでいる私の宝物のひとつです。



●もうひとつご紹介します…これはとても小さなミシン…幅は20センチにも満たない大きさの手動ミシンです。一目惚れです。針を止めるビスがなくなっていたけれど、右側のハンドルを回すと、ちゃんと動きます。
近所の古道具屋さんで、ちゃんと私を待っていました。
こういう出会いは必然です。私はお店に入るとき、誰かに呼ばれている気がしました。…そして、このミシンと目が合った時、この小さなミシンはいいました。
「ずっとここで待っていたよ」と…。
私はごくごく小さな子供の頃から、ミシンに親しんできました。母が洋裁の仕事をしていたからです。けれど、こんなに小さなミシンは初めて見ました。
オブジェとしても素晴らしい存在感を感じます。

このふたつは私の中で、ものを愛おしむ心に火をつけたまま、私の側にいます。今はタオル美術館のリニューアルの作品作りを考えている最中。
そんな私に、ものすごく強いイマジネーションを与えてくれます。

私の宝物は、他の人から見たら「価値のないもの」のように映るかもしれません。

人は、ことあるごとに「意味」を見つけます。その意味の解釈はそれぞれに違います。
けれど私は自分の心が感じたままを、受け取ってしまいます。
それでいいと思います。

2008.07.16 Wednesday

描きたいもの

若いころ…私はただ無性に絵が描きたかった。けれど何を描きたいのかわかりませんでした…ただ白い紙に向かい、手当り次第に目に映るもののすべてを描こうとして来たと思います。

あの頃ほどがむしゃらに筆を持つこともなくなってから…私はやっと描きたいものが見えるようになりました。
人生は一筋縄じゃない…とつくづく実感する毎日。
過ごしてからやっと気づくものが多いことに今更ながら想いを馳せています。

私は何のために絵を描くのかと問われたら、私はただ、生きていたいからと答えます。…そこだけは、私が私のままでいられる場所だからです。その場所にいると心が落ち着きます。気に入った絵が描けるとか、描けないとか…、そういうことでもありません。
ただ、描きたいものがあるのです。私はそれを無心に描くだけの人に、このごろやっとなれたような気になっています。

人は一生という時間を使い、どんなものにでもなれるのだと思います。

もうずいぶん前に私は私を「ペン」と「筆」だと思ったことがありました。けれど最近はずっとパソコンで絵や文字を描いています。
久しぶりに筆を持った時は、多少不安はあったけれど、勝手に筆が動き始めました。
…そして今…とても素直に私は絵描きになりたかったと言葉にすることができます。
…そして私は、言葉を書く人になりたかったと、叫ぶことも出来ます。
このふたつのものを、私は片時も忘れたことはありませんでした。

私の人生のほとんどを知り尽くしているものがあるとすれば、それはやはり「ペン」と「筆」だったと思うのです。

…ようやく、DVDが完成間近になりました。できあがったものを見ると、余り苦労の跡は見えません。…それが自慢です。
そのなかには、私の人生のほとんどを使って描かれた絵と、言葉が、音楽という最高の相棒を得て、ぎっしりと詰まっています。

この間の日曜日に、私は息子と息子の友だちと一緒にワイルドフラッグのライブに行きました。15年振りくらいかな…。飛び入りのゲストも登場したりして、余りにも贅沢で素晴らしくて、かなりショックを受けました。色々な時間の過ごし方があるけれど、継続することの意義や意味を教えて頂いたと思います。
まだ私の中で余韻が残っていて、なかなか客観的になれない私がいます。徐々に、この先のブログで、感動の本質に迫りたいと思います。ぜひご期待ください。

2008.07.12 Saturday

ちょっと切ないひとりごと

今から20数年前に、私は会社を作りました。…それは名もない…いつ花が咲くか芽を出すかもわからない、小さな種みたいな会社。

その種を私の小さな庭にまいた…。それからの日々はその種が芽を出すように、花をさかせることが出来るように…と、祈りにも似た毎日。

ただただ仕事ばかりと向き合って過ごしました。
その中には見逃してしまったものが沢山あったと思います。人生の中で輝いている時期は短いものかもしれないし、気がつけば思いもよらないような年になっていました(笑)

私が大事にして来たものは何だったのかと問われたら、私はどんなふうに答えるのでしょう。

男なら「仕事!」と胸をはって答えるかもしれません。もちろん女だって、そう答えることに偏見はないけれど、私はやはり「家族」だったと思うのです。家族的な規模の会社なので、そこにはスタッフたちも含まれています。

私に足りない部分は、みんなが黙って手を貸してくれて、それが今までずっと私を支えてくれていたものだったと思うのです。
ある人に、休みはあるかと聞かれました。…たぶん、ほとんど休みなしで走って来ちゃったと答えました。

別のことをしていても、頭の中は次の仕事のことを考えています。食事の支度や片付けのときも、お風呂に入りながらも、テレビを見ながらも…。
時々友人が訪ねてきます。電話で都合を聞いてきます。
私はほとんどアトリエにいるので、必ずすぐにつかまるの。
私が電話をしても、友だちは留守のことの方が多くて、なかなかつかまらない。
私は私で「みんな忙しそう…」って思う。
でも友だちが顔を見せてくれるときが一番休まるとき。

夜中にひとりで仕事をしているときが一番時が早く流れる。…でも退屈なことはない。たぶんこれが私が求めていた生き方なんだと思うのです。

そんな私のペースに付き合ってくれる家族は大変だと思います。私はどこかで満ちてくる潮の流れを感じながら、黙々と仕事をします。
それしかできないと言った方が正しいかも。

たまに寂しいと感じるときもあるけど、その一人きりの時間が、私には宝石のように思えるの。
思えばそれは、とてもとても贅沢な時間。ものをつくる力は、そんな時間から生まれるのだと思うのです。もっともっと沢山のものを心を込めて作りたい。
私の生きている時間のすべてを使っても…。
それは決して「お仕事」ではありません。

それが私の人生そのものだと思うのです。


2008.07.11 Friday

踊る理由

ふと思いついて、少し振り返りました。「踊る理由」というのは、1993年に作った版画集です。
…もうそれから15年…。過ぎてしまった時間を惜しむ気持ちはないけれど、そのなかに込めたあの頃の私の気持ち…を今日は鮮やかに思い出していました。

…それは1編の詩で構成されています。

「私が踊る。…いつものように私が踊る。
…そこに音楽があるから」

…そんな書き出しで始まる言葉には、私の人生を重ねました。
私は高校生まで、踊ることだけを考えて夢中で生きてきました。毎日毎日が矢のように過ぎて、朝から晩まで振り付けのことばかり考えていたのです。
…そんな私がドクターストップで踊るのを断念したとき、私はその答えを本に求めました。

夢がまた新しい形へと移行しはじめたとき、私はとても不思議な夢を見ました。青い空が果てしなく広がる場所で、人々が次々と空に向かって昇っていく夢です。私はその夢を今も忘れていません。
そして、後にその夢からのイメージで「白い顔」という短編小説を書きました。

…けれど、私はいつもただ書くだけ…。それを仕事にしたいとか…ということにも無頓着でした。何かが書けるかもしれないと言う好奇心にも似たものが常に内側にあるだけ。
…そして言葉を綴ることにひたすら夢中になりました。

考えてみれば、いつも年中無我夢中。そんな私を一番良く知っているのは、やはり「母」でしょう。母は、私が何かに夢中になると、何もかもを放り出して寝食も忘れることを良く知っています。
…そんな私ですから、仕事も長続きはしません。書きはじめたら眠らずに書き続けます。そんな自分を許せずに無理をして頑張り通して、徹底的に身体を壊したのが24才のときでした。

でもその経験は、その後の生き方にかなりの影響を与えたと思います。自分の限界のようなことがわかったの。それ以来ほとんど病気はしていません。

エンジニアの井口進さん…彼もずいぶん無茶をやったようです。急ぎの仕事を夢中でやっていたら、ついに3日間眠らずに…その後、帰り道意識不明になって、1ヶ月の入院を経験したそうです(笑)

そんなふうに何かに夢中になれることは、たぶん幸せなんでしょう。
それを私は「踊る理由」という詩の中で言いたかったのです。
今読み返してみると、言いたかったことは書けていないと思うけれど、そのときの気持ちだけははっきりと思い出すことが出来ます。

ちょっと立ち止まったり、振り返ったり…それも何故か私にはいつも「音楽」がキーワードになります。今日夕方、サン・サーンスの「白鳥」を聴いていたら、突然「踊る理由」の版画を思い出しました。
以前カタロニア民謡の「鳥の歌」を聴いたとたんに「大きな鳥」の物語を思い出したときのように…。
もしかしたらまた、新しい作品がひとつ生まれるのかもしれません。


2008.07.09 Wednesday

俣野先生

ワコールさんのキッズのパジャマをはじめてから、たぶん26年は過ぎました。…もしかしたら、ワコールさんで最長記録のブランドかもしれません。
はじめたころは、私には子供がいなかったのですが、とびきりの可愛いパジャマを作って子供たちにいい夢を見て欲しいと、すごく緊張して作ったことを今でも昨日のように思い出します。

けれど、当時の主流のものとは全く違う切り口のパジャマで…あの頃はまさか、こんなにロングランで仕事が続いて行くなんて誰も予測出来なかったと思います。

数ヶ月前のこと…私はいつも一緒に仕事をしている人の息子さんに、新作の男の子用のパジャマを送りました。
ユニセックスのものつくりは得意だったけど、近年特に女児と男児の違いがはっきりと分かれるようなものつくりになってきました。…で、前期から「ボーイズ」のものを発表することになったんです。

さて…と考えはじめたら、作りたいパジャマがどんどん浮かんで、絞るのに困りました。…出来上がったパジャマが余りにもかわいいので、数ヶ月前に、長年一緒に仕事をしてきた人の息子さんに送ったのです。

確か3才と6才だったかな…。

久しぶりにその子たちのお父さんに会って会食…その際こんな嬉しい話が聞こえてきました。そのふたりの息子さんは、私のパジャマを着た日から、お風呂から出ると毎晩「俣野先生ないの?」…と聞くそうです。

多分ご両親が「俣野先生のだよ」…とか伝えてくれたのでしょう。私のパジャマはいつのまにかその家の子供たちには「俣野先生」という名前で呼ばれているのですって!

もちろん即座に、また送るから!!…といいました。

子供たちは正直です。大人の思惑通りには決していかないからこそ、ものすごく嬉しかったです。

家の息子も、ずっと私のパジャマで育ちましたが、小学校の高学年になったころ
「いつもお母さんのパジャマばっかりで、たまに違うのが着たい」といったことがありました。

私はそういう反応には、すぐ応えるたちで「わかった!!」と一緒にパジャマを買いにいきました。
…けれど、わざわざ買いにいったパジャマはたった1回着ただけで、次の日からはもういつものスタイルに戻っていました。

少し経ってから…「この間買ったパジャマはどうして着ないの?」と聞くと
「やっぱり、お母さんのパジャマの方が楽」といってくれました。
もちろんそれは、私の力ではなく、ワコールさんのこだわりが反映されているのだけれど、気に入ったものは、すり切れるほど着てくれました。

私は今またひらめいています。

私のパジャマを「俣野先生」と名付けてくれた二人の子供たちのために、我が家の息子が一番好きだと言ったパジャマを、もう一度少し変化を付けて作ってみようと思いました。

ものつくりはみんなを満たそうとしても、決してうまく行きません。
けれど、それを喜んで使って下さる方がひとりでもいれば…それはみんなが喜んでくれるものへの近道なのです。

ちょっとした日常のさりげない出来事です。けれどそれは私にとってはどんな高価な宝石よりも尊い出来事です。

来期は別の部隊から紳士用のパジャマを発表します。実はもうサンプルはチェックしています。またまたものつくりの虫が騒いで、たぶん今までに見たことがないようなかわいい紳士物が出来上がっています。是非一度百貨店さんを覗きにいって下さい。



2008.07.08 Tuesday

アゲハチョウのメッセージ

少し前に紹介した我が家のアゲハチョウがさなぎになる前の写真…スタッフが撮ったものを今日入手しました。

なにか心の中にジンとくるものがあります。
赤ちゃんって…どんな小さなものでも「愛されるように生まれついている」…と、そんな気がするのです。

私が子供を産んだのは、かなりの高齢出産でした。それまでも、その後も仕事にはとても恵まれているけれど、子供がいるのといないのとでは、全く違う人生だったような気がします。

一番驚いたのは、子供を産んでからの意識の違い。…それまでの私は明日のことがわからなくても別に何の支障もなかったような気がするのです。
…けれど子供を持ってからは、この子が20才になったとき、時代はどんなふうに変化しているのかしら?…などと、将来や未来のことに心を使うことが確実に増えました。

言い古された言葉かもしれないけれど、子供を育てるということは、子供に育てられるということなのです。

私はいつも思います。子供を産んで良かったと…。
どんな想像も超えた世界が子育ての中には含まれています。大変なことも確かにあるけれど、そのぶん喜びも増幅していくのです。

私は普通の母親のようではないかもしれません。…けれど、それは外側から見ただけのこと。内側はきっと、誰もが同じ気持ちだと思うのです。

そして、私は我が子をこの手で抱いた瞬間から、世界中の子供たちのことが愛おしく感じました。時代の不安や将来に対する不信感が、毎日テレビで映し出されるたびに、せめて、小さな子供たちだけには、聞かせたくないニュースが沢山あります。

明日は、そんな気持ちをただまっすぐに書いた「マイ ネバーランド」という歌。私と山本恭司さんと一緒に作った歌の英訳をお願いしている方に会います。6カ国の姉妹都市で流される予定の歌を、心を込めて作りたいと思っています。

この青虫君は、私の心に灯をともしてくれたようです。大人たちがどんな選択をしたとしても、無心に産まれ続ける命の在処や、この愛すべきものたちの表情は、なんて穏やかなのでしょう。

けれど、心細くはなかったのでしょうか…たったひとりで玄関にしがみついていて、何度もドアが大きな音を立てて開けたり閉じたりしていた音を聞いていたのでしょうか?
様々な想いをめぐらしながら、飛び立って行ったアゲハチョウを思い出しています。

正面からよく見ると、王冠のようなものをかぶっているように見えます。王様かお姫様に生まれついているものの証のようです。
そして…この子が2週間後にどういう姿になったか、もう一度同じ写真ですがアップします。

私は今日のミーティングでひとつ、重大発表をしました。
「私はもう、これ以上老けるのをやめることにしました!年は重ねるけれど、新しい人生は毎日、毎瞬、生まれるから。…私はずっとさなぎのように小さな世界の中で暮らして来たけど、少し羽根を広げます!」…と。

もちろんこのメッセージは、我が家の扉に必死でつかまっていた、あのアゲハチョウが私に残してくれたメッセージです。





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